2018.05.29.09.08

めっさら

と、謂うのは小説『ベン・ハー - キリストの物語 (Ben-Hur : A Tale Of The Christ』 [作:ルー・ウォーレス (Lew Wallace) 1880年刊行] の登場人物。
その小説は都合、6作も映像化が試みられていて、その役を演じた人物は6人いる事になる。
その6作、ぼくが観たのは1959年の映画『ベン・ハー (Ben-Hur)』 [ウィリアム・ワイラー (William Wyler) 監督作品] であり、この後に綴る駄文もこの映画についての事だけになる。
つまり、記事題名は、スティーヴン・ボイド (Stephen Boyd) が演じたその役、メッサラ (Messala) と謂う事になる。

メッサラ (Messala) は、主人公であるジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) [演:チャールトン・ヘストン (Charlton Heston)] の幼馴染でありながらも彼を無実の罪に陥れる事によって彼と彼の家族に破滅をもたらす。
その物語における最大にして最強の仇敵、悪役なのである。
その敵役っぷり、悪役振りがあまりに堂に入っていて、清々しいくらいなのである。

本来ならば、葛藤が描かれてもいいのにそれがない。旧友を破滅させるのに一切の躊躇いがないのだ。
だから、有名な戦車競走シーン (The Chariot Race Scene) での彼の一切の行動も、その直後に於ける死も、観ているぼく達には充分に納得がいくモノである。
もしもこの映画が純粋に勧善懲悪 (Poetic Justice)、生者必滅 (All Living Things Must Die)、因果応報 (Retribution) を主題に据えていたとしたら、その敵役の死をもって、物語は終焉すべきなのである。しかし、実際にはそうではない。もう少しながく、その後が語られる。
メッサラ (Messala) の所業とそれへの主人公の報復は、その物語のごく一部を成す要素なのである。

メッサラ (Messala) の内面が殆ど描かれてない理由はよく解る。
それは決して彼だけの事ではないからである。物語の主要な登場人物の、殆どにそんな描写はない。主人公ジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) でさえも、それは極めてごく限られてのモノだ。
それは、登場人物の描写が総て、その肉体とその行動をもって語り尽くそうとしているからである。

例えば、ローマ海軍総司令官アリウス (Quintus Arrius) [演:ジャック・ホーキンス (Jack Hawkins)] をみてみよう。
彼は、奴隷へとその身を落とした主人公に身を助けられその結果、彼に市民権を回復せしめた人物である。
彼がどんな人物であるかは、彼のローマ皇帝ティベリウス (Tiberius Caesar Divi Augusti filius Augustus) [演:ジョージ・レルフ (George Relph )] 謁見のシーンをみればいい。登壇する際 (The triumph Of Quintus Arrius In Rome, Emperor Tiberius Officiating) の、彼の揺るぎなさが彼と謂う人格総てを語り尽くしている。凄く短いシーンだけれども、この映画の中で決して見過ごしてはならない場面だ。

無論、戦車競走シーン (The Chariot Race Scene) や、ガレー船 (Galley) 内の描写 (Rowing Of The Galley Slaves) は謂うまでもない。

images
上掲画像は、メッサラ (Messala) の競技場入場シーン。おのれの勝利を確信してやまない表情だ。
黒馬4頭立ての馬車も、黒づくめの彼の衣装も総て、主人公との対比だけを考慮されている。

話を元に戻すと、映画に顕れるスティーヴン・ボイド (Stephen Boyd) の肉体と行動が、メッサラ (Messala) と謂う人格を総て語り尽くしている筈だ、と謂う事なのである。

ところで、この記事の冒頭に「幼馴染でありながらも彼を無実の罪に陥れる事によって彼と彼の家族に破滅をもたらす」と綴った。
そこに、ある種の物語の典型を見出すのは簡単だ。少なくとも、その結果として顕れる主人公の流浪と帰郷の物語を、貴種流離譚 (Hero's Journey) のそれと看做すのは不可能ではない。
それでは、敵役のあり方についてはどうなのか。
なんか手近なところにありそうだなぁと悶々としながらも、そうやすやすとは明快な類例が顕れてはくれないのであった。

結局、ぼくがみつけたのは、映画『十戒 (The Ten Commandments)』 [セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) 監督作品 1956年制作] だった。
主人公モーセ (Moyses) は映画『ベン・ハー (Ben-Hur)』と同じくチャールトン・ヘストン (Charlton Heston) が担っている。彼はヘブライ人 (Hebrew) でありながらもエジプト (Ancient Egypt) の王、ファラオ (Pharaoh) の息子ラメセス2世 (Ramesses II) [演:ユル・ブリンナー (Yul Brynner)] と対等に育てられ、成人した後に、出自の違いからラメセス2世 (Ramesses II) から追放されるのだ。
ジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) に対するメッサラ (Messala) が、その映画ではモーセ (Moyses) に対するラメセス2世 (Ramesses II) となるのである。

こうやってみていくと、旧約聖書 (Vetus Testamentum) の物語である『十戒 (The Ten Commandments)』を新約聖書 (Novum Testamentum) の物語として再演を試みたのが『ベン・ハー (Ben-Hur)』と謂う物語なのだろうか、と謂う気もしてくる。

さらに謂えば。

上にも綴った様に、『ベン・ハー (Ben-Hur)』と謂う物語は、ジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) とメッサラ (Messala) との争いを中枢に据えている様にも思えるが、そのメッサラ (Messala) の死があっても、その物語は終わらない。
その後に続くのは、ジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) の、イエス・キリスト (Jesus Christ) [演:クロード・ヒーター (Claude Heater)] との再会とそれによって顕れる奇蹟の物語なのである。
だから、もしかすると、物語の構図としては、ジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) を中心に据えて、一方にメッサラ (Messala) が配置され、他方にイエス・キリスト (Jesus Christ) が配置されると謂う結構なのではないだろうか。
そして、メッサラ (Messala) の後方にはきっとローマ帝国 (Imperium Romanum) が存在し、イエス・キリスト (Jesus Christ) の後方には神 (God) が存在しているのだ。
神 (God) と謂う表現が妥当性を欠いているとするのならば、世俗の世界 = ローマ帝国 (Imperium Romanum) に対する信仰の世界ないしは教会 (Status Civitatis Vaticanae)、と換言しても良い。この物語では未だ教会 (Status Civitatis Vaticanae) が成立する以前の時代を材としているが、後に築かれるヨーロッパ (Europe) のふたつの世界を予見したモノとみてもいいのではないだろうか。
メッサラ (Messala) 〜ローマ帝国 (Imperium Romanum) と、神 (God) 〜イエス・キリスト (Jesus Christ)、このふたつの板挟みにあってもがき苦しむ、ジュダ=ベン・ハー (Judah Ben-Hur) と謂うユダヤ (Jews) 富裕層に産まれた青年を描いたのが、『ベン・ハー (Ben-Hur)』 と謂う物語なのである。そんな解釈は可能なのだろうか。

勿論、そこまで暴論を振るうのであるのならば、その映画の原作である小説に立ち返る必要はあるのだろうが。

次回は「」。
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