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2017.11.14.08.51

そそそくらてすかぷらとんか

野坂昭如 (Akiyuki Nosaka) の文学作品は未だに読んだ事がない。ないのだけれども、所謂文学とは別の次元で、彼自身や彼の作品、もしくはそこから派生したモノには、折に触れて接してきた様な気がする。

解りやすい事例を挙げれば、映画『火垂るの墓 (Grave Of The Fireflies)』 [高畑勲 (Isao Takahata) 監督作品 1988年制作] だ。彼の同名短編小説『火垂るの墓 (Grave Of The Fireflies)』 [1967年発表] を原作としている。
リアルタイムで劇場で観た事はないモノの、主題が主題であり、物語設定が物語設定である故なのだろう、8月の風物詩の様に、テレビ放映されている。

幼い頃は、彼が作詞家として関わった童謡『おもちゃのチャチャチャ (Toys' Cha-cha-cha)』 [作詞:野坂昭如 (Akiyuki Nosaka) 補作詞:吉岡治 (Osamu Yoshioka) 作曲:越部信義 (Nobuyoshi Koshibe) 1959年発表] を、保育園等で歌わせられたりお遊戯させられたりしていた。

勿論、学生時代の、どこへも行くあてのない、退屈な土曜日深夜はTV番組『朝まで生テレビ! (Live Broadcast Until Dawn)』 [1987年より テレビ朝日系列放送] だ。その番組ではいつも、非常に聴き取りにくい滑舌で早口の持論をまくしたてていた印象が強く遺っている。

そして、童謡と深夜番組の、中間の時季、彼を歌手として起用したCM『サントリーゴールド900 (Suntory Gold 900)』 [1976年放映] が放映されていた。そこで彼が歌唱していたのが楽曲『ソ・ソ・ソクラテス (So-so-soocrates)』 [作詞:仲畑貴志 (Takashi Nakahata) 作曲:桜井順 (Jun Sakurai) 歌唱:野坂昭如 (Akiyuki Nosaka) 1976年発表] なのである。

その歌は1番2番で構成されており、CMで主に流れたのは1番だ。その1番には4名の思想家が歌詞の中に登場し、CMではあまり流れない2番には4名の文学者が登場する。
都合、8名の名だたる著名人がそうである様に、自身と自身が属する世代を対等の存在として顕彰する。恐らく、21世紀の日本の今の時代には、決して出てきそうもない発想ではある。

但し、CM『森永エールチョコレート (Morinaga Yell Chocolate)』 [1967年放映] のCMソング『大きいことはいいことだ!!』 [山本直純 (Naozumi Yamamoto) 作 1967年発表] が成し得た様にその曲が、右肩上がりの高度経済成長期 (Japanese Economic Miracle) を謳歌していない / 出来ていないのは、「みんな悩んで大きくなった (Be Worried And To Glow)」と謂う部分で否応もなく解る。
なにかがどこかでゆっくりと、別の局面に向かいつつある、そんな時代認識の許で改めて、自分達がいる今の場所を把握しようと謂う意識が働いている様に、今のぼくには思える。

ところで、このCMソングに登場する8名の人物をひとりひとりみていくと、その選択が面白い。
「ソクラテス」と「プラトン」、「ニーチェ」と「サルトル」、「シェイクスピア」と「西鶴」、そして「ギョエテ」と「シルレル」。
8名が2名づつ、対句的に組み合わされて4組、その組み合わせはそれぞれそれなりの理由があって併置されている。1番が思想家4名で、2番が文学者4名である事は既に綴った。
1番の2名2組の思想家達は、古代のギリシア哲学 (Ancient Greek philosophy) と現代の実存主義 (Existentialisme) と謂う対比があり、2番の2名2組の文学者達も、それなりの理由がありそうに思える [のだが一言で断定するのは難しい]。

ソクラテス (Socrates) とプラトン (Plato) の関係性は、一言で謂えば、師弟関係に尽きる。尽きるのだが、通常の師弟関係にはありえない事がこの2名にはある。それは、ソクラテス (Socrates) は著述作品を一切遺しておらず、プラトン (Plato) がその教えを自己の著作物の中で綴る事によって初めて、ソクラテス (Socrates) の思想に接する事が出来ると謂う事なのだ。つまり、プラトン (Plato) の存在なくしてソクラテス (Socrates) は存在し得ない。
このふたりの関係は、プラトン (Plato) の説く所謂プラトニック・ラヴ (Platonic Love) の、洞窟の比喩 (Allegory Of The Cave) にも似ている様に思える。

フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) とジャン=ポール・サルトル (Jean-Paul Sartre) は、教科書的な指摘をすれば、2名とも無神論的実存主義 (Atheistic existentialism) に分類可能で、前者が到達した思想の、そのさらに向こうへといきつこうと足掻くのが、後者の思想の様に思われる。
だけれども、教科書云々の表現で謂えば、少なくとも倫理社会 (Ethics And Society) の授業では、そおゆう流れに基づいたかたちで登場しなかったのであった [少なくともぼくの場合は、だが]。
後者が1学期の授業で、現代社会に於ける疎外 (Entfremdung) と謂う文脈の中で登場し、前者は2学期の授業、実存主義 (Existentialisme) と謂う思想を学ぶ際に登場する。疎外 (Entfremdung) と謂う語句に顕れる様に、そこでは、ジャン=ポール・サルトル (Jean-Paul Sartre) はカール・マルクス (Karl Marx) と対句になっている一方、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) は有神的実存主義 (Christian Existentialism) の代表格、セーレン・キェルケゴール(Soren Kierkegaard) との対比となって講義された。
だから当時、受験科目として倫理社会 (Ethics And Society) を選択していない生徒達にとっては、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) とジャン=ポール・サルトル (Jean-Paul Sartre) は一見、意外な組み合わせにみえた事だろう。

ウィリアム・シェイクスピア (William Shakespeare) と井原西鶴 (Ihara Saikaku) は、同時代の東西の文学者だ。前者の生没年が1564 - 1616、後者の生没年が1642 - 1693。同時代と謂う雑な括りをしてしまった後で、同じ年をこのふたりは過ごしていない事に気づいてしまった [が、この際だ、大目にみてもらおう]。
だけれども、世界史 (World History) の授業にも日本史 (Japanese History) の授業にも登場するふたりだけれども、そのどちらかの授業科目を選択していても、また例え両科目を選択していても、ふたりが同時代人であると謂う認識が得られる訳ではない。
ところで、不思議に思うのは、ウィリアム・シェイクスピア (William Shakespeare) に並び称される"戯曲家 (Playwrighter)"は、近松門左衛門 (Chikamatsu Monzaemon) [1653 - 1725] だと思うのだが、何故、井原西鶴 (Ihara Saikaku) なのだろう。
逆に考えれば、井原西鶴 (Ihara Saikaku) に比肩しうる文学者、しかも庶民達を生き生きと描いた作品群を産み出した文学者をその時代、彼の他に思い浮かばないのだけれども、そんなところに理由があるのだろうか。

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「ギョエテ」はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (Johann Wolfgang von Goethe) 、「シルレル」はフリードリヒ・フォン・シラー (Friedrich Schiller) の事である。それぞれの表記は、原語から日本語への表記の変換が定まらなかった当時に流通していた表記方法によるものである。そんな表記の定まらなかった2人の文学者が歌詞の中でふたり並んでいる訳だ。
そしてこのふたり、同時代人であるばかりか、実際にこのふたりは直接の交流があった。互いにみて、好敵手にしてライバルと謂えるだろう。それぞれの評伝の中で、他方がどの様な役割をもってその物語の中に登場するのか、実際に読み比べてみると面白いだろう [上記掲載画像は彫像『ゲーテ・シラー・モニュメント (Goethe-Schiller-Denkmal [エルンスト・フリードリヒ・アウグスト・リーチェル (Ernst Friedrich August Rietschel) 作 1857年]]。
ところで、表記が定まらなかった為に産まれた「ギョエテ」と「シルレル」だが、前者はゲーテ (Goethe) が難読だったが為に産まれた苦し紛れの表記のそのひとつであったのに対し、後者は舞台ドイツ語 (Buhnendeutsch) の発音法に基づく誤読、つまりある程度の独語習熟の結果、産まれたモノである事を思えば、単純な対比とは必ずしも謂えないのであった。
斎藤緑雨 (Saito Ryokuu) の川柳「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い (You Call Him Gyoete, Is It Me?, Goethe Says)」が単なる皮相的な皮肉 [勿論、裏読みの結果、多層な解釈を得る事はいくらでも可能だ] として響くのに対し、小説『走れメロス (Run, Melos!)』 [太宰治 (Osamu Dazai) 1940年発表] の中に登場する一節「古伝説とシルレルの詩から (Inspired By An Old Legend And Shiller’s Poem.)」は、敢えて太宰治 (Osamu Dazai) がそう綴ったのだろうと類推が可能なのである。

次回は「」。

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>さくらさん

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2017.11.14.09.07. |from =OyO=| URL

No title

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2017.11.14.08.55. |from さくら| URL

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