2017.05.23.09.54

よていはみていであってけっていではない

この台詞はぼくの中高時代、仲間内の会話の中で、しばしば登場する。
基本的には、それまで盛るだけ盛ったネタを一切合切にご破算にさせてしまう、ただそれだけの為に起用される。だから大概、発言者はその場にいたモノ達によって大顰蹙を買う事になる。しかし、そもそも、その発言の主からみれば、大顰蹙を買う事を前提にして、放った台詞だから、本人の思う壺に収まった事にはなる。逆に謂えば、物の見事に落ちが着いて、その場の総てをさらった事となるのである。

だが本来、その台詞の用法はそうではない。
例えば、ある学校行事に関して、当日までになすべき事や当日までに決してなすべきではない事、そして当日になすべき事や当日決してなすべきではない事が、次から次へと教師から告げられて、げんなりしてしまったぼく達に向けて、教師が放つべき言葉ではあるのだ。
「ま、予定は未定であって決定ではないからな」

つまり、今まで語られてきた決め事や決まり事の総ては、最終的には臨機応変に対応すべき事柄である、と謂う主張なのだ。

だけれども、だからと謂って、その言葉に甘える訳にはいかない。
上の台詞の後に「当日は愉しくやればいいんだから」とでも引き継いでくれるのならばともかく、老獪な教師ならば、こう謂うだろう。
「最低限、○○○だけは気をつける様に」とか「○○○だけは忘れない様に」とか。だ。
結局、最終勧告にも等しい注意事項をつける事は忘れてはいないのだ。

勿論、中高時代でのぼく達の会話に登場したそれは、そうではない。
ある懸案事項に関して、ああでもないこうでもないと謂う主張が次から次へと乱打され、それになんとなく落とし前がつきそうになった際に、その台詞が登場するのだ。
そして、元の木阿弥へと、灰燼へと帰するのだ。
だがその結果、本来ならば一悶着があってしかるべきところが、決してそうはならない。へらへらと情けないばかりの薄ら笑いの出番となるだけなのである。

と、謂うのもこの台詞、それまで交わされた種々の言葉や、それを発言したモノたちが本来、担わなければならない責任と謂うモノ、その総てを放棄させてしまうからなのである。
それまで交わされた言葉の応酬が真剣であればある程、重みとなり足枷となるモノから、その台詞が発せられた途端にぼく達は自由になり、解放される。

予定は未定であって決定ではない。この台詞はその為にのみ機能する。
だからこそぼく達は、いついかなる事も、真摯になって、無責任な言論を放埓させられるのだ。

ところが、残念ながら、そんな楽園時代は永くは続かない。
進学や就職によって、そんな会話を芳醇に交わせた交流はそこで終わる。

仮に同じ様な議題が同じ様な主張をもって繰り返されたとして、その場でその台詞が発せられたとしても、全くもって同じ様な機能を果たしてはくれないのだ。
かつてのぼく達のあいだで、符丁の様に機能したその台詞は、符丁であったが故に、別の場所では全くの役立たずだ。顰蹙を買う不用意な発言としてしか、そこでは働かない。

映画『田園に死す (Pastoral : To Die In The Country)』 [寺山修司 (Shuji Terayama) 監督作品 1974年制作] では、鑑賞者は2度、映画監督に裏切られる事にはなるが、鑑賞者の殆どはその2度の裏切りを良しとする。そればかりか映画的な快楽として愉悦に浸る。それは鑑賞者と映画監督との間に密やかな契約が成立しているからだ。
映画『ホーリー・マウンテン (The Holy Mountain)』 [アレハンドロ・ホドロフスキー (Alejandro Jodorowsky) 監督作品 1973年制作] でも同じ様に、鑑賞者はその物語の最期の最期に映画監督に裏切られる。だが、それを鑑賞者が受け入れられる事は出来るのだろうか。特に、その映画監督の前作『エル・トポ (El Topo)』 [アレハンドロ・ホドロフスキー (Alejandro Jodorowsky) 監督作品 1969年制作] の映像美と作劇術に酔い痴れたモノ程、そのハードルは高くなっている様にも思える。いや、それだからこそ裏切りは裏切りとして機能するのではあるのだが。

喩え話として喩えを試みる為に例証したモノがちっともその役割を成していない。

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もっと、卑近な例を挙げてしまえば、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン (Neon Genesis Evangelion)』 [庵野秀明 (Hideaki Anno) 監督作品 19951996テレビ東京系列放映] の最終話『世界の中心でアイを叫んだけもの (Take Care Of Yourself.)』を、総ての視聴者が受け入れられるのだろうかと謂う事なのである。

中高生時代のぼく達は、少なくともあの最終話を受け入れられてしまったモノ達であって、そのモノ達の間でだけ「予定は未定であって決定ではない」と謂う台詞は特殊な使命を帯びて流通していたのである。
だが、残念ながら、この世の中にはあの最終話を理解出来ていない人物達が多いばかりでなく、その大多数はあのアニメ番組を観ていないばかりか、存在さえも知らないのだ。

[念の為に綴るけど、上の文章でさえ比喩でしかない。ぼく達の中高時代にはあのアニメ番組は制作さえされていないのだから]

一浪して、東京の大学に入ったぼくはそこで、予定と未定と決定が厳しく峻別される世界に遭遇する。
そしてその4年後、社会人となったぼくには、予定であろうが未定であろうが総てがあたかも決定事項として実行すべき世界が待っていたのだ。
つまり、そこでは不用意に発せられた言葉でさえも常に、言質をとられてしまうのである。

次回は「」。

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