2017.05.02.11.22

まざー

ジョン・レノン (John Lennon) の楽曲『マザー [母] (Mother)』 [アルバム『ジョンの魂 (John Lennon / Plastic Ono Band)』収録 1970年発表] を初めて聴いたのは、彼のベスト盤『シェイヴド・フィッシュ~ジョン・レノンの軌跡 (Shaved Fish / Lennon Plastic Ono Band)』 [1975年発表] での事だ。
発売日直後に買った記憶はあるから、四半世紀以上も昔の事になる。

その曲の直前に収録されているのは『人々に勇気を (Power To The People)』 [アルバム『ザ・ヒッツ~パワー・トゥ・ザ・ピープル (Power To The People : The Hits)』収録 1971年発表] であり、その曲の直後に収録されているのは『女は世界の奴隷か! (Woman Is The Nigger Of The World)』 [アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ (Sometime In New York City)』収録 1972年発表]である。
ほぼ編年体で収録されているそのベスト盤に於いて、その並びは時系列を違えて収録されている。その3曲だけを発表順に並べると『マザー [母] (Mother)』、『人々に勇気を (Power To The People)』 そして『女は世界の奴隷か! (Woman Is The Nigger Of The World)』となる。
この収録順の真意は解らない。
ただ、『マザー [母] (Mother)』の前後に据えられた2曲は、外へと強く発信するメッセージがあるだけに、『マザー [母] (Mother)』は深く暗く内へと潜り込む。
人々に勇気を (Power To The People)』 での、ポジティヴで力強い主張が、『マザー [母] (Mother)』冒頭で鳴り響く鐘の音で、打ち消されてしまう様にも思える。
だが逆に『人々に勇気を (Power To The People)』 と『女は世界の奴隷か! (Woman Is The Nigger Of The World)』とを連続させて聴けば、ジョン・レノン (John Lennon) と謂うアーティストの片面的な部分ばかりが強調されて聴こえてしまう。

ここで、この楽曲を聴いた当時のぼく自身の事を綴れば、それはそれで『マザー [母] (Mother)』と謂う楽曲に関する想いが語られる事になるのであろうが、ここではそれはしない。
素直に、楽曲に向き合ってみる。

images
ジョン・レノン (John Lennon) 『マザー [母] (Mother)』 [アルバム『ジョンの魂 (John Lennon / Plastic Ono Band)』収録 1970年発表]
[上掲画像はこちらから。]

ジョン・レノン (John Lennon) と謂うアーティストの生涯を知るモノからみれば、この曲はジョン・レノン (John Lennon) 自身を主題としたモノである事はたちどころに解る。
第1連に登場する「母 (Mother)」とは彼の実の母、ジュリア・レノン (Julia Lennon) であり、第2連の「父 (Father)」とは彼の実の父、フレッド・レノン (Alfred Lennon) の事だ。そして、ジョン・レノン (John Lennon) 自身の視点に立てば、彼等2人は、その歌詞にある様な行為を実の息子に対して行ったのだ。

だから、それに従って解釈していけば、第3連に登場する「子供達 (Chirdlen)」は、当時の彼にとっての2人の子供達と謂う事になる。
即ち、前妻であるシンシア・レノン (Cynthia Lennon) との間に産まれたジュリアン・レノン (Julian Lennon) と後妻であるオノ・ヨーコ (Yoko Ono) の連れ子キョーコ・オノ (Kyoko Chan Cox) である。しかも作品発表時、それぞれが彼の許を離れている。
第3連は、その2人に向けてのメッセージなのだ、そう理解する事は困難な事ではない。

だが、そういう聴き方をしてしまうと、途端にこの楽曲の魅力は半減する。と、謂うのは、その当時のジョン・レノン (John Lennon) の行動は、2人からみれば、その曲で謳われている第1連と第2連そのモノではないだろうか。つまり、彼の父母とおなじ行為をジョン・レノン (John Lennon) は行なってしまった事になる。

だけれども決してその様には、ぼく達はこの曲を聴かない。何故ならば、第3連に登場する「子供達 (Chirdren)」を、ぼく達自身の事として捉えてしまうからだ。
それは何故か。

ひとつには、終始、単純にしてかつ重々しい鼓動を産み出しているリンゴ・スター (Ringo Starr : dr) とクラウス・フォアマン (Klaus Voormann) : b) のリズムが、この部分では僅かながらも軽快感を得る。それだけで、この曲を歌う作者のむけるまなざしがべつのモノへと変わった様に思えるからだ。

そして、もうひとつは、その歌詞なのである。
「歩けもしないのに走り出そうとする (I Couldn't Walk And I Tried To Run)」
これは決してジョン・レノン (John Lennon) に限った行為ではないからだ。
みた事もあれば、聴いた事もある。勿論、自分自身の体験ですらある。
直裁的に謂えば、幼児のそれであり、比喩的に謂えば、成句の『石橋を叩いて渡る (Look Before One Leaps)』の裏返しだ。

この曲の第3連がその様なモノとして響き始めるのであるのならば、その結果、先行する第1連第2連の解釈も揺らいでくる筈だ。

この曲は決してジョン・レノン (John Lennon) 個人の体験を綴ったものではない、と。
ここで謳われている母 (Mother) や父 (Father) は、聴き手にとっての母 (Mother) や父 (Father) をも謳ってやいやしないだろうか。

「望んだところで望まれてもいない (I Wanted You, You Didn't Want Me)」
「求めたところで求められてもいない (I Needed You, You Didn't Need Me)」
ここにある欠乏感や喪失感は、決して彼個人のモノ、彼独特のモノ、彼唯一のモノではない筈だ。
程度の差こそあれ、頻度の差こそあれ、自身の両親に対して、誰しもが抱く事のある感情なのではないだろうか。

ここまで辿り着けば、普遍的な人物像とその父母との関係性を思い描く事もあるだろうし、ヒトによっては、自身そのものを謳ったモノと解釈する事もあり得るだろう。つまり、作者であるジョン・レノン (John Lennon) のそれを、自身のそれにそっくりそのままなぞらえる、同一視する解釈も決して不可能ではない。

作者自身の個人的な体験が、普遍的な詩情となってヒトビトに届くと謂う事は、例えばこの様なメカニズムが機能するからではないだろうか。

次回は「」。

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