2017.04.11.12.40

りありずむのやど

苦手な作品なのだ。
つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の、単行本なり選集なりを手にとってみれば大概、掲載されている。
実際に、家にある彼の作品集にも載っている。
だから、何度も読んだ。そして、読むたびにいつも、すっきりとはしない。
その作家の、他の幾つもの作品から抱く読後感とは、少し違う。
リアリズムの宿 (Realism No Yado : Inn By Realism)』 [1973株式会社双葉社 『漫画ストーリー』掲載 『紅い花 / やなぎ屋主人』等に収録] の事だ。

その理由は解っている。
作品名なのだ。それが違和感をいつまでたっても拭きれない理由のひとつなのである。

その中にこうある。
「リアリズムすぎるなと思いがっかりする」
「リアリズム(生活の臭い)にはあまり触れたくないのだ」

その夜、宿泊する事となった宿の第一印象だ。そして、物語が綴るのは、その一夜の出来事なのである。

この発言に対してはひとこと、こう切り返したくもなる。
おまえがいうな。

何故ならば、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) の作品の殆どは、私小説 (I Novel) とも呼べる程、作者の身辺、しかも狭く閉じられた世界を舞台にしているからだ。「リアリズム」と謂うのは、作者の描く作品世界そのものではないか。

だが、作者の作品群に親しんでいるあるモノはこう謂うかもしれない。
その作品は確かに作者の身辺、しかも狭く閉じられた世界を起点にして始まっている。しかし、その殆どの作品は、そこから少し別の方向へと乖離しようとしていないだろうか、と。

上の言葉にある「少し別の方向」の正体を説明するのは難しい。それは恐らく、個々の作品それぞれで異なるモノなのかもしれないし、その上、その作品を読むモノが抱くモノもそれぞれに違った印象を抱かしむるモノなのかもしれない。
だから、ここではそれをこれ以上は詮索せずに、単に、虚構作品として成立させ得るナニカとでも、認識しておこう。

つまり、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 晴作品の真骨頂は、「リアリズム」を起点としてそこからどこかへと飛翔 [さもなければ逃亡] する事にある、と呼べるのかもしれない。
少なくとも、作者つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 自身は自作品をそう認識していて、その夜に宿泊した宿では、それが困難であると理解したと、その作品の中で告白しているのだ。

images
その発言のあったコマには、宿にはいった主人公の眼にうつった全景が描写されている [画像はこちらから]。
気になるのは、黒く塗りつぶされた主人公の描写だ。つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) ならでは表現で、後にマンガ『マカロニほうれん荘 (Macaroni Hourensou)』 [鴨川つばめ (Tsubame Kamogawa) 作 19771979年 週刊少年チャンピオン連載] の最終回 (Final Episode) でもこれとよく似た表現が登場する。逆に謂えば、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) のパロディ (Parody) を行いたければ、この表現を模倣すれば良い。それだけ、つげ義春 (Yoshiharu Tsuge) 作品の愛読者ならば誰でも知っている、作者独特の手法なのである。

そして、このコマでのこの描写をここでは考えてみる。

このコマにある黒く塗りつぶされた人物を、ある人物の描く影とみるには、室内に灯された電球の存在がそれを許さない。
だから、嫌でも物理的に許された描写ではないだろうと、先ずは考える。

もしも、この黒い人物が描かれなかったとしたら、どうなのか。
それはきっと、主人公の主観ショット (Point Of View Shot) として読者に認識させるだろう。つまり、主人公の「リアリズム」云々と謂う認識は強引にも読者も共有すべきモノとして、顕れる。

逆に、黒い画像ではなくて、そのコマの他のモノと同様に、きちんと描かれていたとしたら、どうなのか。
それは上の場合とは全く逆。主人公自体も、そのコマに登場するあらゆるモノと等価なモノとして認識され、総ては客観視される。勿論、主人公の「リアリズム」云々と謂う認識も、だ。
読者はそれすらも批評の対象とする事も可能なのだ。

だから、作品上での表現、つまり黒く塗り潰された主人公の描写は、それらを悉く、曖昧なモノとさせる。それは、主観ショット (Point Of View Shot) にも客観描写 (Objective Depiction) にも同時になり得る。
そしてその結果、この主人公を物語冒頭からここまで続く陳述を頼りに、作者自身の映像と看做す事も許されなくなってしまう。

そう。
作者は「リアリズムすぎるな」と感情を吐露したその場所で、その発言をした舌の根も乾かぬうちに、「リアリズム」からの遁走を試み始めるのだ。
『リアリズムの宿』と題しておきながら、その実、「リアリズム」と途方もなく遠い地点への着地を試みている作品と看做す事も、許されるのかもしれない。

「リアリズム」とは一見、客観描写 (Objective Depiction) に徹した手法であると宣言しておきながらその実態は本来、この様に、対象となる事物の存在を曖昧模糊とさせる手法なのだ。
例えば、この作品の表紙では、荷を担ぐ老人を撮影する主人公 [=昨者] が描かれているが、では、このふたりを描く視点はどの様に担保されているのだろうか。
つまり、カメラを抱えている作者を描いている作者は一体、どこにいるのだろうか、と謂う事なのである。

この作品を読むとぼくはいつも、作品と作者との距離を考えさせられてしまうのである。

次回は「」。

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