2017.04.04.09.27

くびつり

マザー・グース (Mother Goose) の『10人のインディアン (Ten Little Nigger Boys)』 [フランク・J・グリーン (Frank J. Green) 作 1869年発表] では何故、最期に遺った少年は首を吊るのだろうか。
そして、何故、その歌詞とは別に、首を吊らずに済む歌詞 [『10人のインディアン (Ten Little Injuns)』 セプティマス・ウィナー (Septimus Winner) 作 1868年発表] もあるのだろうか。
勿論、このふたつの疑問に関しては、その楽曲の成立過程をつぶさに調べれば、ある程度は判明する。だけれども、それで総てが解決するとは思わない。

この歌を題材にした推理小説に『そして誰もいなくなった (And Then There Were None)』 [アガサ・クリスティ (Agatha Christie) 1939年発表] がある。
童謡殺人 (Murder By Nursery Lymm) と謂うジャンルの代表的な作品だ、と謂う視点からみると、マザー・グース (Mother Goose) の『10人のインディアン (Ten Little Nigger Boys)』を題材とした云々と謂う事だけにしか念頭に浮かびづらくなってしまうが、もしかすると作者のアガサ・クリスティ (Agatha Christie) には、冒頭に掲げた様な疑義があったのかもしれない。つまり、冒頭の疑義に関する、作者ならではの解答がこの小説に丹念に描かれている様に、ぼくには思えるのだ。

その小説の中では、最期に遺ったひとりのこころの中の、混乱と確執と妄執がつぶさに描写されていて、その原因となるのが、ふたつある歌詞の最期に遺った少年の運命の落差だ。
ひとりは首を吊り (He Went And Hanged Himself)、ひとりは結婚する (He Got Married)。
そしてそれが引き金となって ...。

先を急ぐのはあとだ。
ただ、ここではこのふたつの歌詞がある事によって、その推理小説は戯曲化 [『そして誰もいなくなった (And Then There Were None)』アガサ・クリスティ (Agatha Christie) 1944年発表] され映画化 [『そして誰もいなくなった (And Then There Were None)』ルネ・クレール (Rene Clair) 監督作品 1945年制作] されていったと知っていればいい。小説版とは異なる結末が謀らずも用意されたのだ。
その結果、その物語は常にふたつの結末が用意されている事になり、それだけでも既にその物語を知っているモノも興味と関心を抱かしめる効果を及ぼすのだ。
つい先日放送された『そして誰もいなくなった (And Then There Were None)』 [2017テレビ朝日系列放映] もそのひとつであるが、ぼくは未観だ。どちらの結末を採用したのかは知らない。

これから書いてみようと思うのは、何故、最期に遺った少年は首を吊るのだろうか、と謂う事なのだ。

マンガ『ジロがゆく (Jiro Ga Yuku : Joro Goes)』 [真崎守 (Mori Masaki) 19691971別冊少年マガジン連載] では作中人物の発言として、人が死を選ぶのは死を演出したいが為と謂う趣旨の主張がみられた [本来ならば作品に則ってその発言を引用すべきだが、申し訳ないがその作品は手許にはない。押入の奥底だ]。
ならば、少なからずも創作者の手によって描かれる虚構作品に於ける自死には、その人物の死を演出せんが為と謂う意思は働いているのに違いない。

物語に首吊りが重要な要素を占める作品は一体、いくつあるのだろうか。実はあまり思い当たらないのだ。人が死ぬ、自死をする、それが語られる物語はいくらでもある筈なのに、そしてその中の死因が首吊りである物語はいくらでもある筈なのに、それが物語全体におおきな影響を及ぼすモノはどれ程あるのだろう。
だから、これから登場する首吊りの幾つかの挿話は、ふと浮かんだモノばかりで、決していい例とは謂えないかもしれない。

マンガ『悪魔くん復活千年王国 (Sennen Oukoku : Millenarianism)』 [水木しげる (Shigeru Mizuki) 作 1970週刊少年ジャンプ連載] では、悪魔くんこと松下一郎 (Ichiro Matsushita aka Akuma-Kun) の父松下太平(Tahei Matsushita) が縊死を謀る。悪魔くん (Akuma-Kun) によって召喚された悪魔ベルゼブブ (Demon Beelzebub) の謀略によって、自社を喪ったばかりか莫大な負債を抱えてしまったからだ。悪魔ベルゼブブ (Demon Beelzebub) との契約によって、おのれの魂を売らねばならず、唯一遺された報復として自死を彼は選ぶ。だが、彼を吊った荒縄は彼の体軀を支え切らずに切れてしまう。
そして、その場に間に合った悪魔ベルゼブブ (Demon Beelzebub) は彼を絞殺しようと試みる。
その直後、松下太平(Tahei Matsushita) は瀕死の場面に駆けつけた悪魔くん (Akuma-Kun) 達によって救済されるのだが、以上の様な物語展開は、単にイロニー (Irony) しか述べていない様に思える。
自死を失敗してその生命が救われても他者によって無理矢理、首を絞められる事になるからだ。しかも、試みられる自死の直前では、松下太平(Tahei Matsushita) のモノローグ (Monologue) としてとてもロマンティック (Romantique) な心情ばかりが綴られている上に、実際に悪魔ベルゼブブ (Demon Beelzebub) によって絞殺されかかっている瀬戸際では、悲惨なくらいに苦しげなのだから。

映画『続・夕陽のガンマン (Il buono, il brutto, il cattivo)』 [セルジオ・レオーネ (1966年制作] では、2度も首吊りのシーンが登場する。どちらも、トゥーコ・ベネディクト・パシフィコ・フアン・マリア・ラミレス (Tuco Benedicto Pacífico Juan Maria Ramirez) [演:イーライ・ウォラック (Eli Wallach)] が絞殺されかかり、それをブロンディ (Blondie a.k.a. The Man With No Name) [演:クリント・イーストウッド (Clint Eastwood)] が救済する。
だけれども、このふたつのシーンは必ずしも同義ではない。
物語冒頭で行われるそれは、あくまでもブロンディ (Blondie a.k.a. The Man With No Name) の拳銃の腕前を披露させんが為の演出だ。トゥーコ・ベネディクト・パシフィコ・フアン・マリア・ラミレス (Tuco Benedicto Pacífico Juan Maria Ramirez) が吊り上げられる直前で、遥か彼方から拳銃で荒縄を打ち抜くのだ。
だけれども物語の最終場面で行われるそれは、その技量の再演と謂うだけではない。
トゥーコ・ベネディクト・パシフィコ・フアン・マリア・ラミレス (Tuco Benedicto Pacífico Juan Maria Ramirez) を吊り上げたのはブロンディ (Blondie a.k.a. The Man With No Name) であって、彼の不安定な足場のその足許には、それまで彼がつけねらっていた黄金がおかれている。両腕を縛り上げられた上に首を吊られている彼には、喉から掌が出る程欲しいそれに掌が届かない。それどころか、灼熱の炎天下だ。誰もそこにはいない。体力を消耗し不安定な足場を喪えば、遅かれ早かれ、そこで縊死となってしまう。
それはまるで、七つの大罪 (Septem peccata mortalia)を主題とした映画『セブン (Seven)』 [デヴィッド・フィンチャー (David Fincher) 監督作品 1995年制作] における強欲 (cupio) の殺人シーンと差し替える事も可能な程だ。

ここでぼく達が気づくべきは、首吊りとは、自死の手段のひとつであると同時に、刑罰のひとつでもある、と謂う事なのだ。
小説『黒猫 (The Black Cat)』 [エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) 作 1843年発表] でも小説『眼球譚 (Histoire de l'oeil)』 [ジョルジュ・バタイユ (Georges Bataille) 作 1928年発表] でも、首を吊ると謂う事が即ち、自らが犯した罪の刑罰を甘んじて受ける [さもなければ受けよ] と謂う様な意義で登場する。

そしてそれは、小説『そして誰もいなくなった (And Then There Were None)』でも同様なのだ。

つまり、『10人のインディアン (Ten Little Nigger Boys)』に於いて、最期に遺った少年が首を吊るのは、自らが犯した罪の意識からなのだ。

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首吊りを主題とした楽曲のひとつに、スージー・アンド・ザ・バンシーズ (Siouxsie And The Banshees) の『プレイグラウンド・ツイスト (Playground Twist)』 [アルバム『ジョイン・ハンズ (Join Hands)』収録 1979年発表] がある。

次回は「」。

附記:
自死の為の手段と、刑罰としての死と、このふたつを考えてみると、切腹 (Seppuku) と謂う作法がふと浮かぶ。だけれども、切腹 (Seppuku) が許されるのはある特定の階級に浴するモノだけだ。武士 (Bushi) でなければ、切腹 (Seppuku) すらも許されない。例えば、近藤勇 (Isami Kondo) が斬首されたのは、武士 (Bushi) としての地位を剥奪する為の行為でもあるのだ。大河ドラマ『新選組! (Shinsengumi!)』 [三谷幸喜 (Koki Mitani) 脚本 2004NHK放映] の最終回では、そんな歴史上の史実を踏まえた上で、視点をひっくり返し、武士としての近藤勇 (Isami Kondo) [演:香取慎吾 (Shingo Katori)] を肯定しようと謂う試みとも謂える。
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