2017.01.31.10.07

ぐわごぜ

それは、仏閣の格子を打ち破り、頭から衣を被った、恐ろしげな形相で下層を伺っている。
その名を、元興寺 (Gangoji) と謂う。

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その図は、鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 描く『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [1776年刊] の一葉であって、ぼくの手許にある『鳥山石燕 画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [監修:高田衛 (Mamoru Takada) 編集:稲田篤信 (Atsunobu Inada)、田中直日 (Naohi Tnaka) 刊行:1992国書刊行会] にも掲載されている。
[上掲画像はこちらから]

だが少し、変なところがある。

鳥山石燕 (Toriyama Sekien) の原画には、元興寺 (Gangoji) と謂う題名の横に"ぐハごせ (Guhagose)"と仮名が添えられている。
一方、その原画の掲載されている頁の下にはその妖怪の解説が掲載されていて、そこには元興寺 (Gangoji) と謂う文字の横に"がごぜ (Gagoze)"と仮名が添えられているのだ。

これだけをみると、元興寺 (Gangoji) と謂う文字は本来、がごぜ (Gagoze) と読むモノであり、その歴史的仮名遣 (Historical Kana Orthography) が、ぐハごせ (Guhagose) である、と謂う解釈が成立する。
[余談ではあるが、ぼくが今、PCでがごぜ (Gagoze) と入力しようとしたら、予測変換 (Predictive Text) で元興寺 (Gangoji) と出た。]

そもそもは、元興寺 (Gangoji) に出没する怪異を、元興寺の鬼 (Gangoji No Oni) と呼んだり、がごぜ (Gagoze) や、がごじ (Gagoji) や、ぐわごぜ (Guwagoze) と、様々な呼称で呼びならわしているらしい。

ぼくの手許の『鳥山石燕 画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [監修:高田衛 (Mamoru Takada) 編集:稲田篤信 (Atsunobu Inada)、田中直日 (Naohi Tnaka) 刊行:1992国書刊行会] にも、「子供が言うことを聞かないときに、元興寺の鬼に会わせると言ったり、顔をしかめてガゴジと言い<中略>」と綴られている。

どうもこの怪異は、出没する場所が元興寺 (Gangoji)である事だけを共通解としているだけで、その正体は杳としれない様なのだ。

その正体不明の有り様は、水木しげる (Shigeru Mizuki) のマンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Gegege No Kitarou)』 [19651969週刊少年マガジン連載] に登場するぐわごぜ (Guwagoze) も踏襲している様だ。

彼はその1挿話『朧車 (Oborokuruma)』 [1968年発表] に登場し、"おばけの国の総理大臣 (The Prime Minister Of The Damon World)"を自称する。あたかもその物語の中心人物であるかの様に行動しているが、その読後、彼の自称を裏付ける様なモノはあまり遺らない。
では、その題名に掲げられている朧車 (Oboroguruma) の傀儡なのかと謂うと、そうでもない。だからと謂って、朧車 (Oboroguruma) がぐわごぜ (Guwagoze) の強力な武器乃至は部下とも謂いかねるのだ。

その物語の実質的な主人公は、そのマンガの作者、水木しげる (Shigeru Mizuki) 自身であって、彼の周囲に起こった怪現象を縷々と綴っただけの様な作品なのだ。
鬼太郎 (Kitaro) やその父の目玉おやじ (Medama-Oyaji)、そしてねずみ男 (Nezumi-Otoko) も登場するが、他の挿話にみられる様な主体的な行動は殆どしていない。いや、逆だ。彼ら個々の、能動的な行動は常々、観察する事は出来るがその殆どが物語上の起承転結に結びつかないのだ。身勝手でその場しのぎの場当たり的行動ばかりだ。

それは物語の渦中にある筈の彼等だけなのではない。
物語は日本全土を巻き込む程の大きなうねりをみせはじめるが、その解決の任にあたるべき人物達は誰も、具体的な行動をとろうとはしない。ただ、この場に乗じて日頃、行いたいと思っている行為を実行したいが為に、右往左往している様にみえる。
難問解決の為に招聘された高僧もまた、自身の眼に映るモノを語るだけで、何ら具体的な示唆をしないのだ。

一方の、物語の主人公である筈の水木しげる (Shigeru Mizuki) はその作品では、ぼく達の考えている以上に常識人であり小市民的な人物である。自身の創作物である筈の鬼太郎 (Kitaro) 達に出逢った結果、次から次へと沸き起こる怪事象に翻弄され続ける事になる。彼の妻である武良布枝 (Nunoe Mura) の方がむしろ堂に入ったモノで、如何なるモノが顕れ様とも、彼女の日常生活を揺るがすものではない。

事件は水木しげる (Shigeru Mizuki) 夫妻の日常に侵犯し彼等を翻弄し続けるが、彼等の一切気づかぬ場所で決着をみて、彼等の日常は再び、あたかも何事もなかったかの様に復帰する。

変な物語なのだ。

敢えて謂えば、事件終幕後、この一連の現象を巡る、水木しげる (Shigeru Mizuki) の独白が綴られていて、それを綴らんが為の作話であるかの様な印象を受ける。

次回は「」。

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