2016.10.18.09.11

ずぼし

その意味するところや語源に関しての問題はさておき、日常的にはあまり使用しない語句だなぁと思ってはいる。
現実の生活に於いては、もっとくだけた、と同時にその現場に相応しい語句が登場する様な気がする一方で、物語 [ここで指し示しているのは最も広い意味に於いてのモノだ] の中では、煩雑に登場している様な気がする。つまり、クリシェとして、半ば常態化した形で、そのことば、図星が登場している様に思えるのである。

例えば、次の様な場合。

人物Aと人物Bが対峙している。人物Bが人物Aのここ最近の言動をひとつひとつ挙げ立て、そこから類推して帰納し得る人物Aの内心にある心象を指摘する。

「図星だ」

人物Aは人物Bのその指摘をそう評価せざるを得ない。

尤も、この「図星だ」と謂う評価を、言外に発するのか、それとも、人物Aの内的発話のみに留めておくのか、幾つものその表出の仕方はあるだろうが、ここではそこへは踏み込まない。単純に、この物語のメディア [小説なのか舞台なのか映画なのかそれともそれとも] の特性によって、最も相応しい表出が選ばれるのだろうと、しておく。メディアやその作劇法によっては、登場人物の内的発話と謂う表出方法が一切、ない場合もあり得るからだ。

さて、ここで人物Aが人物Bの指摘を「図星」と評価した事によって得られるモノは一体、何なのだろうと思考を試行してみるのが、本論の目的なのである。

ここで発せられる「図星」と謂う語句は、人物Bの指摘を人物Aが肯定した、と謂うだけではない。
この場面以前にみられた、人物Aの言動や内心を、総括しているのだ。この場面以前で行われていた、人物Aに関する描写を客観的に描写してみた、とも謂える。
それによって、その物語の鑑賞者の随意の解釈に委ねられてきた、人物Aへの理解や評価が、人物Bの指摘を前提としたモノへと修正され得るのだ。
逆に謂えば、物語の鑑賞者に対して、人物Aへの理解や評価を、その物語の作者自身が、是正を求めてきた、と謂い換えられるのかもしれない。

つまり、人物Aと謂う登場人物の、性格や心情、人間性や行動様式は、ここで人物Bが指摘した様なモノに基づくモノであって、これから後に続く物語では、それを前提にして彼を評価すべきである、なんとなれば、人物Bの指摘をこの場で彼は認めざるを得なかったからだ、と謂っている様なモノなのである。

と、謂う様に考える事ができるのであるのならば、人物Bの指摘を人物Aが「図星」であると肯定せざるを得ないこの場面は、作劇上、起承転結で謂うのならば、第2節である"承"の最終部に該当するのではないだろうか。

それは、ひとつには、その場面で人物Aと謂う登場人物の存在があらためてそこで規定され、そんな人物があらたな問題に直面するであろうと考えられる事であって、ひとつには、客観的な指摘として断定された人物Aが、そこに内在的乃至外在的に孕む問題を如何に対峙し克服していくのかと謂う、別の物語へと転換する可能性があるからなのである。

ここまでは、人物Bの指摘を人物Aが「図星」であると評価した場合を考えてきた。
では、それとは逆に人物Bが自らの指摘を指し示して「図星」であると評価した場合はどうなのか。
つまり、人物Bは人物Aの言動をこれこれこの様なモノであると解釈したが、人物A自身からみれば、それは否定のしようもないモノの筈だ、はっきりとここで認めてしまえ、そんな論調で語られる場面だ。

この場合、少なくとも、これまで述べて来た事も多分にあり得る。
人物Bの視点から立ってみた、人物Aの評価と謂うモノがここで、物語の鑑賞者に共有すべきモノとして提供されているからだ。

但し、ここで注意すべき点は、人物Bの主観を通じて、それが提供されていると謂う事なのだ。
多分に、過誤の可能性がそこにある。
それは、人物Bの指摘を、肯定するにしろ否定するにしろ、人物Aの随意な判断が存在し得るからだ。可能性としては、故意の場合もあれば過失の場合もあり得る。
そして、その過誤そのものが、その後に続く物語の、重要な要素たり得るのである。

と、ここまで得意満面に綴ってはきたモノの、果たして、一体、どこまでぼく自身の意図するモノが書き連ねられているのか、全くもって、自信はないのである。
本来ならば、既に発表された物語の中から、語るに相応しい場面を摘出して、それを例示として、議論を展開すべき事なのだ。

だが、どうしても、最適な「図星」の場面を指摘する事が出来なかった。

images
例えば、芥川龍之介 (Ryunosuke Ryunosuke) の小説『藪の中 (In A Grove)』[1922年発表] にも「図星」と謂う語句は登場するが、殊の他に、思ってもみなかった使用例なのである。
この物語の7人の登場人物は誰も皆、自身の主観から、思い通りの物語を語る訳ではあるが、どれひとつを抽出しても、他の登場人物の語る物語との整合性は一向に欠損しているままなのだ。
[上掲は、その小説『藪の中 (In A Grove)』を原作とする映画映画『羅生門 (Rashomon)』[黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1950年制作] のポスター。こちらから。]

次回は「」。

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