2016.09.27.12.17

てのめ

「神さまどうかお助けください ぼくの手に妙なものがついているのです」

マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Ge Ge Ge No Kitaro)』 [作:水木しげる (Mizuki Shigeru) 19651969週刊少年マガジン連載] の1挿話『手の目 (Te No Me : Eye On Hand)』 [1968年2月発表] は、神社で祈願する少年の、そんな台詞から始まる。

その神社の祠で居眠りをしていた鬼太郎 (Kitaro) が、偶然にもその声を聴き咎める。
少年の言によれば、数年前から自身の左掌に、ナニモノかが憑依し、1日のうちの数時間、自身の意思とは別のところで左掌が勝手気儘に動くのだと謂う。それが次第に悪化し、今では右掌も自在に操られ、たった今、その両の掌が殺人を犯してしまったのだ。
少年の話を聴くや否や、鬼太郎 (Kitaro) は事件解決へと乗り出す。

さて、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Ge Ge Ge No Kitaro)』の読者ならば、鬼太郎 (Kitaro) のもつ能力のひとつ、鬼太郎つき (Kitaro-tsuki : Possesssed By Kitaro) を想い出すかもしれない。
敵対するモノの掌に、鬼太郎 (Kitaro) の意思が憑依し、そのモノの自由を奪うのだ。
その作品群の中の幾つかの挿話、例えば『妖怪ゆらりひょん (Nurarihyon)』 [1967年10月発表] や『オベベ沼の妖怪 (Yokai From Obebe Swamp)』 [1968年6月発表] で、その能力は披露されている。

だから、この挿話『手の目 (Te No Me : Eye On Hand)』では、鬼太郎 (Kitaro) と対等の能力 [否もしかするとそれ以上の能力] をもったモノとのちからくらべの様な展開を期待したいところだが、そおゆう方向へとは物語の舵はきられない。
あっさりと、鬼太郎 (Kitaro) はそのモノの術中にはまり、その右掌が自身の意思に反しておのれの頸を占めるのである。

この挿話は面白い事に、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Ge Ge Ge No Kitaro)』の、常套句が殆ど登場しない。
ねずみ男 (Nezumi-Otoko) はこの事件に一切絡んではこないし、鬼太郎 (Kitaro) の父親である目玉おやじ (Medama-Oyaji) も登場しない。風邪をひいて寝込んでいるのだ。
その代りに、鬼太郎 (Kitaro) に加勢するのが、砂かけ婆 (Sunakake-Babaa) なのである。
いや、しかし、この挿話には、彼女がいなければいけない。彼女の能力があって初めて、物語としての結構が可能なのだ。

[それは実際にその挿話にあたって堪能してもらった方がいいだろう。]

これから綴るのは、その挿話のタイトル・ロールである手の目 (Te No Me : Eye On Hand) の事だ。
手の目 (Te No Me : Eye On Hand) と謂う妖怪は、鳥山石燕 (Toriyama Sekien) の画集『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [1776年刊] に掲載されている。

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荒漠としたすすきの原に、両ノ掌を前に突き出してかざす盲人がひとりいる。しかも、その盲人の掌にひとつづつ、眼球があるのだ。

マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Ge Ge Ge No Kitaro)』の挿話『手の目 (Te No Me : Eye On Hand)』に登場するモノも、その画集をそのまま援用しているが、そこで発揮される彼の特殊能力の一切は、作者である水木しげる (Mizuki Shigeru) 自身の設定なのである。
何故ならば、その原典である画集には、そのモノに関する言及が一切ないからだ。

ちなみに、ぼくの手許にある『鳥山石燕 画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [監修:高田衛 (Mamoru Takada) 編集:稲田篤信 (Atsunobu Inada)、田中直日 (Naohi Tnaka) 刊行:1992国書刊行会] の『手の目 (Te No Me : Eye On Hand)』には『諸国百物語 (Shokoku Hyaku Monogatari : One Hundred Supernatural Tales From Many Countries)』 [1677年刊] の巻三『ばけ物に骨をぬかれし人の事 (The Story Of The Man Who Was Stolen HIs Bone by The Demon)』が紹介されている。その逸話に、掌に眼球がある老人が登場するからだ。

そして、ぼくは次の様な事を考えている。

昔、観た時代劇 (Jidaigeki : Japanese Costume Play) 作品の中で、按摩を褒めることばの一節に「まるで掌に眼がある様だ」と謂う台詞があったのを聴き覚えている。どの作品のどのシーンかは、記憶にない。ただ、その台詞は一度や二度ではない。慣用句的な言説の様に、何度も聴いた筈なのだ。
そこでは、按摩の両の掌の動きがまるで、患者の痛みやこりがあたかもみえている様に、自在にほぐしていると謂う意味を持っているのだ。

そして、それとは別に、盲人であろうがなかろうが、自身の視界を遮られてしまえばきっと誰もが、両の掌を突き出してよろよろと蠢めくしかないのではないか、と。

このふたつの事がよりあわさってイメージの源泉となればきっと、鳥山石燕 (Toriyama Sekien) が『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』に描いた画像は描けるのではないのだろうか、と。

次回は「」。

附記 1.:
マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Ge Ge Ge No Kitaro)』の挿話『手の目 (Te No Me : Eye On Hand)』には、次の様な発言が登場する。
「ぼくの頭がわるいのじゃなくてこの手がわるいんだ」
「おまえ片手になってどうするんだ! 嫁のきてもなくなるぞい」
作者である水木しげる (Mizuki Shigeru) の生涯へとふと、ぼくはおもいめぐらしてしまう。

附記 2.:
映画『パンズ・ラビリンス (El laberinto del fauno)』 [ギレルモ・デル・トロ (Guillermo del Toro) 監督作品 2006年制作] には、手の目 (Te No Me : Eye On Hand) を彷彿とされる異形のモノが登場する様だが、残念ながらぼくは未見なのだった。
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