2016.08.09.08.50

やおやおしち

八百屋お七 (Yaoya Oshichi) と謂う少女の逸話は、歌舞伎 (Kabuki) の演目『松竹梅雪曙 (Shouchikubai Yukinoakebono)』[作:河竹黙阿弥 (Kawatake Mokuami) 1856年発表] を通じて知ったと記憶をしている。
但し、この場合の歌舞伎 (Kabuki) の演目と謂うのは、歌舞伎座 (Kabuki-za) での公演ではないばかりか、NHKの劇場中継 (NHK Kabuki) でもない。
ある年の正月の、『新春かくし芸大会 (New Year Parlor Tricks Tournament)』 [19642010フジテレビ系列放映] の演目のひとつとして、なのである。

どの年の、誰によるモノなのかは皆目、見当がつかない。いや、それ以前に本当に、『新春かくし芸大会 (New Year Parlor Tricks Tournament)』なのかと謂う事自体を裏付けるモノもない。
ただ、ぼくが憶えているのは、晴着を着た少女とその後ろに控える黒衣 (Kuroko) が一心同体 (Being One Flesh) となって、火の見櫓 (Fire Lookout Tower) の梯子を昇りその最上部にある半鐘 (Fire Bell) を叩く所作、所謂『櫓のお七 (Yagura no Oshichi)』を観ていたと、いう事だけだ。
演目の題名として、八百屋お七 (Yaoya Oshichi) と謂う字面はあったのだろうけれども、少女が [しかも自意識のない人形の様な素振りで] 半鐘 (Fire Bell) を叩く、その行為を裏付ける物語は当時、一切に知らされていない。
だから、ただ、少女を演じる人物と、その介助を行う黒衣 (Kuroko) を演じる人物と、ふたりの演者の一心同体 (Being One Flesh) を感心するしかなかった。
もしも歌舞伎座 (Kabuki-za) での公演としてこの演目を観ていたら、恐らく、異なった感興を知る事にはなったろうが、それは憶測するしかない。
ぼくがこんなうろ覚えの不確かな記憶を綴るのは単に、古典芸能 (Theatre Of Japan) と謂うのは、当時のぼく達はこの様な形で接する機会の方が多かった、その一例としてなのだ。

images
上掲画像は、歌川国貞 [三代目歌川豊国] (Utagawa Kunisad aka Utagawa Toyokuni III) 描く『八百屋お七 (Yaoya Oshichi)』。八百屋お七 (Yaoya Oshichi) を題材にした作品は幾つも描かれてはいるが、黒衣 (Kuroko) も登場しているのでこの作品にした。

八百屋お七 (Yaoya Oshichi) の物語はその後、TVの、ある時代劇番組 (Jidaigeki Program) のひとつの挿話として、観た記憶がある。その頃にはぼくも、火事と少女とを紡ぐ物語の背景の、その全容は認識していた筈だ。
そしてTVの時代劇番組 (Jidaigeki Program) の特徴のひとつである勧善懲悪 (Poetic Justice) を受けて、恐らく、少女の行為はその物語の終幕に於いて赦されていたと記憶している。それとも、もしくは、彼女は冤罪 (Miscarriage Of Justice) でそれが物語の主人公達の活躍によって看破されたのだろうか。
だから、少なくとも、その時代劇番組 (Jidaigeki Program) は『必殺シリーズ (Hissatsu Shigotonin Series)』 [19722009テレビ朝日系列放映] ではないのだろう。もしも仮に、そのシリーズで八百屋お七 (Yaoya Oshichi) が語られるとするのならば、今現在語られているその逸話以上に、酷く哀しい仕打ちを少女は受けなければならない [と妄想を逞しくすると、とても面白い挿話が出来そうな気もしてくるから、困ったものなのだ]。
それと同様に、『水戸黄門シリーズ (Mito Komon)』 [19692011TBS系列放映] でもない筈だ。物語の舞台が江戸 (Edo) である上に、八百屋お七 (Yaoya Oshichi) の物語の背景にあるのが天和の大火 (The Great Fire In The Tenna Era) でこれが1683年、この時、『水戸黄門シリーズ (Mito Komon)』の主人公である徳川光圀 (Tokugawa Mitsukuni) は現役の水戸藩主 (The Head Of Mito Branch)、彼が隠居するのは1690年なのだから。
但し、こうやって年号だけを頼りに時代考証 (Background Research) をしていくと、大岡越前 (Ooka Tadasuke) も遠山の金さん (Toyama no Kin-san) も、八百屋お七 (Yaoya Oshichi) とは出逢えない算段になってしまう。但し、うろ覚えの記憶をまさぐっていくと、お白洲 (Oshirasu : An Area Of White Sand In A Law Court) の場面がクライマックスにあった筈だから、『銭形平次シリーズ (Zenigata Heiji Series)』 [19661984フジテレビ系列放映] でも『大江戸捜査網シリーズ (Oedo Sōsamo)』 [19701990テレビ東京系列放映] でもないのだろう、と考えている。
だからと謂って、ここまで登場してきた時代劇番組 (Jidaigeki Program) のラインナップに、八百屋お七 (Yaoya Oshichi) の物語に深く関与する可能性の大きい火付盗賊改方 (Arson Thief Breaks) である長谷川宣以 (Nobutame Hasegawa) が登場しないのは、ぼくが棲んでいた地域は彼を主人公とする『鬼平犯科帳 (Onihei Hankacho)』 [19701972テレビ朝日系列放映] の放送がなかったからなのだ。
興味がある方は、時代劇番組 (Jidaigeki Program) の総ての放送エピソードを丹念に観ていけば解明出来る問題ではあるよ、とここではこのまま投げ出しておく。
正しい事実を明かし立てるよりも、幾つもある物語の設定を前提にして、ありうべき挿話の可能性を追求している方が、今のぼくには愉快だからだ。

八百屋お七 (Yaoya Oshichi) の物語で明記しておかなければならないとしたら、彼女が丙午 (Bingwu) で、その年はそれに倣って出生率 (Birth Rate) が低いと謂う事だ。
ぼく達がこれまで活きてきた時代では1966年で、これから活きる時代では2026年、この年に聖家族贖罪教会 ( Temple Expiatori de la Sagrada Família) が遂に完成する。
だが、彼女の様な気性の激しい女性は、ぼくはもう何人にも出逢ってしまっているし、それに辟易してしまう事も多々なのである。

ただ、女性と火事と聴けば、八百屋お七 (Yaoya Oshichi) の物語よりも、ぼくは安珍清姫 (Anchin And Kiyohime) の物語に想いが向かう。おのれを疎んじる恋人を蛇身 (Serpent) に化身して焼き殺してしまう物語だ。
八百屋お七 (Yaoya Oshichi) の相手が寺小姓 (Page) である一方で、清姫 (Kiyohime) の相手が若い修行僧 (Monk) である事も通底している様に思える。
ただ、ふたりの起こす炎の向かう矛先が大きに異なるだけなのである。
火の見櫓 (Fire Lookout Tower) に昇って半鐘 (Fire Bell) を叩く代わりに、恋人をその隠れた梵鐘 (Bonsho) ごと自らの劫火で焼き尽くすのだ。

次回は「」。

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