2016.04.12.12.20

うたたねにこひしきひとをみてしよりゆめてふものはたのみそめてき

夢のなかにおもわぬひとが登場する。
しかも、そのおもわぬひととありえぬひとときを、夢のなかですごす。

そんな夢をあなたはみたことはないだろうか。
そして、そんな夢からめざめたそのときのこころもちはいかばかりであろうか。

夢のなかで出逢うひとは多種多様ではあるが、だからといって、日々の日常、現実の生活をそのまま反映しているものとはいいがたい。
すくなくとも、ぼくがみる夢はそうだ。

学生時代、不意に夢のなかに、となりのクラスの女子が登場してうろたえたときがある。日常、彼女との接点はほとんどない。科目によっては、成績順でクラスが総入れ替えになるから、時には、同じ授業を受けていたのかもしれない。
だが、とんと会話のかわした記憶すらもない、その女子だった。

一方で、交際こそはしてはいないけれども、半ば周知で、恋人同然にみなされている、仲のよいクラスメートはひとりいた。
その娘は当時も、今も、一度たりとも、ぼくの夢際にあらわれたこともない。

だから、夢のなかでとなりのクラスのその女子と出逢った翌朝は、相当に嫌な感情ばかりがかけめぐっていた。
思いもよらぬ自身の心情をみすかされて、それをありのままに、みせつけられたような、居心地のわるさなのだ。

と、謂う様な自身の体験をそのまま引き摺って、『古今和歌集 (Kokin Wakashu)』 [撰:紀友則 (Ki No Tomonori)、紀貫之 (Ki No Tsurayuki)、凡河内躬恒 (Oshikōchi No Mitsune)、壬生忠岑 (Mibu No Tadami) 905年成立] 収録の小野小町 (Ono no Komachi) のこの歌にあたると、とてつもなく牧歌的に思えてしまう。

うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき (Since I caught a glimpse of lovely him in the dream at napping. I have hoped and have relied on a dream which is fleeting.)

だけれども、それは間違った解釈なのだ。

ぼくが昔みた夢、となりのクラスの女子が顕れたその夢に、狼狽えてしまったのは、 [当時の] ぼくがその女子に逢いたいと思っていたからこそ、彼女が夢の中に顕れたのだと謂う理解があるからだ。
なんだ、おまえの本命はクラスメートのあの娘ぢゃなくて、となりのクラスの娘なのかい、と。
そんな本人すらも思ってもみなかった真意を、夢に告げられて、理解不能なあまりに自身の感情が収集不能となってしまったのが、狼狽えたその理由だ。
数十年後の今、冷静にこの件を考察しても、未だに正しい解を得る事が出来ていない。

小野小町 (Ono no Komachi) のその歌は違う。
当時の解釈は、夢の中に顕れるその人物が、夢をみているそのひとをおもって、顕れるのだ。
つまり、歌にそって解釈すれば「恋しき人 (Lovely Him)」が作者を慮って作者の夢に登場した、と謂う訳なのだ。

逆に、夢と夢のなかに顕れたひととの関係性について、以上の様な理解を得る事が出来ていなければ、この歌を充分に堪能する事は出来ない。
「うたたね (Napping)」の「夢 (Dream)」中に「恋しき人 (Lovely Him)」をみる事が即ち「たのみそめてき (Have hoped And Have Relied On)」と小小野小町 (Ono no Komachi) が謂う、その悦びを、だ。

そんな理解は、今のぼく達の暮らしの中では、考えづらい発想なのかもしれない。だが、例えば、"夢枕に立つ (Appear To One In A Dream)" と謂う成句がある。
神仏や霊障もしくは故人、"夢枕に立つ (Appear To One In A Dream)" のは、必ずしも現実にこの世に暮らしているヒトばかりではないが、少なくとも、"夢枕に立つ (Appear To One In A Dream)" 彼等の方が、眠っているぼく達の方に用向きがあるのだ。ぼく達が、夢のなかに、彼等を呼び寄せたのではない。

今のぼく達が、そのヒトの事を思いつめたその結果、夢の中にそのヒトが顕われると考えるのは、少なくとも、ジークムント・フロイト (Sigmund Freud) 以降の、近代的な心理学 (Psychology) の登場以降の成果、そのひとつなのだ。

源氏物語 (The Tale Of Genji)』 [作:紫式部 (Murasaki Shikibu) 1008年頃成立] の『第2帖 帚木 (Chapter 2 Hahakigi : The Broom-Tree)』で、光源氏 (Hikaru Genji) と契った空蝉 (Utsusemi) が、自身の犯した不貞を夫である伊予介 (The Iyo Deputy) に、夢を通じて知られてしまうのではないかと怖れるその理由もそうならば、同じく『第13帖 明石 (Chapter 13 Akashi)』で光源氏 (Hikaru Genji) の夢に桐壺帝 (Emperor Kiritsubo ) が顕れたのもそうであるし、同じく『第20帖 朝顔 (Chapter 20 Asagao : Morning Glory)』で光源氏 (Hikaru Genji) の夢に藤壺 (Lady Kiritsubo) が顕れるのも、やっぱりそうなのだ。

第13帖 明石 (Chapter 13 Akashi)』での桐壺帝 (Emperor Kiritsubo) も、『第20帖 朝顔 (Chapter 20 Asagao : Morning Glory)』での藤壺 (Lady Kiritsubo) も、共に故人であって、所謂、光源氏 (Hikaru Genji) の"夢枕に立つ (Appear To One In A Dream)" 例だ。
[生人が夢に顕れる、もう少し解りやすい事例を挙げられればと、思ったが、思い出せなかった。その昔、大学受験に備える意味も込めて、読んだ筈なのだけれども。]

だから、もうとっくに時効 (Statute Of limitations) なのだけれども、ぼくの夢に顕れたその女子が一度、ぼくに本当のところを告げてくれてもいいのに、と思う春はあけぼのの上の空であることなのだがなぁ。

images
上掲は、『夜ごとの美女 (Les Belles de Nuit)』 [ルネ・クレール (Rene Clair) 監督作品 1952年制作] のポスター(掲載画像はこちらから)。

次回は「」。
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