2016.04.05.11.50

りゅう

芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の短編小説『 (Dragon : The Old Potter's Tale)』 [1919中央公論掲載] は、中学校の教科書 (Middle School Language Arts Textbook) に掲載されていた筈だ。
だから、と謂う訳ではないが、これから綴るこの拙稿は、その小説を読んだと謂う前提で綴る。粗筋も紹介しない。その代りに、物語の最終場面は臆面もなく触れる。つまり、ネタバレはするのだ。
それ故に、未読の方はこちら (The Original Texts ) に全文が掲載されているから、先ずはそちら (The Original Texts ) をあたってもらいたい。

もう一度、冒頭の文章を繰り返す。

芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の短編小説『 (Dragon : The Old Potter's Tale)』 [1919中央公論掲載] は、中学校の教科書 (Middle School Language Arts Textbook) に掲載されていた筈だ。

だけれども、彼の名の知られた小説群を読んだ身としては、その小説が掲載に足るに相応しい内容と謂えるかどうかは、とてつもなく覚束ない。
その小説の最後で触れられる、もうひとりの鼻の長い法師 (A Long-nosed Priest)、池の尾の禅智内供 (Ikeno-no-Zenchinaigu) が主人公の小説『 (The Nose)』 [1916新思潮掲載] の方がよっぽど面白い。この小説は中学校 (Middle School) にあがる前、小学校高学年 (The Higher Classes In The Primary School) 時の担任の企みで読ませられた事がある [その件については既にここで触れた]。

おそらく、今考えるだに、中島敦 (Atsushi Nakajima) の小説『山月記 (The Moon Over The Mountain)』 [1942文學界掲載] が教科書 (Textbook) に採用されている理由と同種なのだろう。
その小説が、その後に控えている漢文学習 (Studying For Chinese Classics) への前哨戦 (Prelude) であるのと同様に、芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の小説『 (Dragon : The Old Potter's Tale)』は、同様の理由で、古典学習 (Studying For Pre-modern Japanese Literature) への前哨戦 (Prelude) なのだ。
猶、中島敦 (Atsushi Nakajima) の小説『山月記 (The Moon Over The Mountain)』云々に関しては、担当国語教師 (The Teacher Of Japanese) からそおいった説明が実際にあった上に、その小説を学んだ年の夏休み、同じ作家の中編小説『李陵 (Li Ling)』 [1943文學界掲載] が読書感想文の課題図書 (Recommended Books For Book Reports) として、生徒全員が必読を迫られたのであった。

芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の小説『 (Dragon : The Old Potter's Tale)』は、その程度の位置付けに甘んじるに足る、その程度の作品であると看做して差し支えない作品ではあるのだけれども、果たして、それだけだろうかと問えば、おそらく、もうひとつの理由がある。
それは作品の主題だ。否、より正確に綴れば、作品の主題と看做しうるモノが、如何にも、中学生 (Middle Class Students) に読ませるに相応しいと思わせる、教条的なモノと理解可能なのだ。

上の段落、いささか迂遠な表現ばかりを重ねてしまっているが、もっと単純な物謂いをすれば、以下の様に表現できる。

芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の遺作『歯車 (Spinning Wheels)』 [1927文藝春秋掲載] は、作品のクオリティも高い上に、その主題も明確であるのにも関わらず、決して中学校の教科書 (Middle School Language Arts Textbook) に採用される事はないだろう。何故ならば、その作品を授業で取り上げて以降、殆どの生徒の目前で、その小説の主人公同様に、半透明な歯車 (Translucent Spinning Wheels) が廻りだすのに違いないからだ。

芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の小説の大半がそうである様に、この小説『 (Dragon : The Old Potter's Tale)』にも、原典がある。
説話集 (Setsuwa Collection)『宇治拾遺物語 (Uji Shui Monogatari)』11巻6『蔵人得業猿沢の池の龍の事 (A Monk, E'in And A Dragon Will Arise From Sarusawa Pond)』である。

主人公が蔵人得業恵印 (E’in,Former Keeper Of His Majesty’s Storehouse And Master Of The Profound Dialogue) である事も同じであれば、その面妖な相貌から鼻くら (Hanazo) と蔑まれている事も同じ。そして、普段の腹いせから猿沢の池 (Sarusawa Pond) の端に高札を立て掛けるのも同じならば、そこに竜 (The Dragon) の昇天を予告する事も同じだ。
違うのは、宇治の大納言隆国 (Minamoto No Takakuni) の申し出によって陶器造の翁 (The Potter, Oldest) が語る物語として語られている点と、立て掛けた高札の結果だ。

前者に関しては、枠物語 (Frame Story) の中で語られている物語と謂う結構を採る事によって、もうひとりの鼻の長い法師 (A Long-nosed Priest)、池の尾の禅智内供 (Ikeno-no-Zenchinaigu) が主人公の小説『 (The Nose)』への類推を読者に促すと同時に、宇治の大納言隆国 (Minamoto No Takakuni) が編纂したと謂れている、もうひとつの説話集 (Setsuwa Collection)『宇治大納言物語 (Uji Dainagon Monogatari)』の成立過程への類推をも促す。
と、謂うか、もしかすると、既発表の作品と同傾向の内容ではないかと謂う、読者からの批判を遮る為の役割を与えられているのだろうか。

後者に関して謂えば、原典では竜 (The Dragon) は昇天しないが、小説では昇天する。いや、もう少し詳しく綴れば、目撃者も多数いる上に、主人公自らもそれを目撃する。だが、それが本当に竜 (The Dragon) なのか、それとも集団でみたまぼろしであったのかは、明らかではない。

作家は何故、この様な改変を試みたのだろうか。
物語の粗筋だけを追っていけば、原典そのままの物語であっても充分に、[発表当時の] 現代の小説として流通可能な気がするが、どうだろうか。
その一方で、作家の改変は、一編の幻想小説 (Fantasy Literature) へと昇華する可能性を秘めているのにも関わらずに、目の前に横臥しているのは、如何にも、中学校教師 (Middle School Teachers) が好みそうな、処世訓めいた主題でしかない。
否、それ故に、この小説が生き永らえたと謂う事は可能ではあるのだが。

冷静に考えれば、原典を改変して現代の小説として蘇らせ様と試みるのならば、大雑把によって、次のよっつの構造を考える事が出来る。
1. 主人公が当日、猿沢の池 (Sarusawa Pond) に出向くが、竜 (The Dragon) は顕れない。
2. 主人公が当日、猿沢の池 (Sarusawa Pond) に出向き、そこに竜 (The Dragon) が顕れる。
3. 主人公は当日、猿沢の池 (Sarusawa Pond) に出向かなかったものの、竜 (The Dragon) が顕れる。
4. 主人公は当日、猿沢の池 (Sarusawa Pond) に出向かず、その上、竜 (The Dragon) も顕れない。

上記、1. が原典に準ずる物語で、2. が作家が綴った物語だ。
勿論、小説家のその小説の様に、実際に竜 (The Dragon) が昇天したか否かそれを客観的に保障する手法を放棄する方法もあって、そうすれば、ありうべき物語の構造はいくらでも分類可能ではあるが、主人公の主観として目撃したか否かと謂う点で考慮すれば、上のよっつに集約される。
いずれにしろ、作家の技倆に関わる事ではあるのだから、物語を微分化していけば、いくつでも、ありうべき物語を誕生せしめる事は可能なのだ。

さて、こうやってよっつの分類を眺めていると、そこに、芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) と謂う作家の作家性からは、ほど遠い、全く無縁な物語の可能性もみえて来る。
3. や4. は志賀直哉 (Naoya Shiga) あたりが採用しそうな物語の結構ではあるし、そうでなくとも、竜 (The Dragon) と謂うもうひとつの主人公の扱い如何によっては、自然主義文学 (Naturalisme) のひとつやふたつくらい登場しそうな気がしないでもない。しかも、そこに優れた作家性が介在すれば、仮令、竜 (The Dragon) が昇天しようとも、その主義に準拠した小説の可能性がない訳ではない。

少なくとも、芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) が採用した物語は、自然主義文学 (Naturalisme) から最も離れた場所にあって、しかもそれは失敗したと、ぼくには思われる。

おのれの中に産まれた些細な悪戯心の思うが侭に行動した結果、全くおのれの技倆の掌の届かぬところで、物語が産まれ、今度はおのれ自身が、そのおおきな物語に呑み込まれてしまう。

例えば、比喩として妥当か否かは自信はないが、悪戯に荊の冠 (Crown Of Thorns) をかぶせたが為に、大工の息子をユダヤの王 (Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum) として処刑せねばならなかったポンティウス・ピラトゥス (Pontius Pilatus) の物語だ。
彼はいくらでも、そして、何度となく、大工の息子の延命を謀る事が出来た筈なのに、自らのちからとは到底比類し得ない大きなモノの力によって、その男を処刑せざるを得ない。結果的に、その男の追随者以外は誰も信じてはいなかった、救世主 (Messias) としての地位をポンティウス・ピラトゥス (Pontius Pilatus) は与えてしまったのだ。
その物語の最終局面に於いて、イエス・キリスト (Iesus Christus) の誕生に加担したのが、彼なのだ。

芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) の小説『 (Dragon : The Old Potter's Tale)』はそんな可能性を孕みながらも、些か、小市民的 (Petit Bourgeois) な決着をも引き受けてしまったが為に、中学校の教科書 (Middle School Language Arts Textbook) と謂う、作家にとっては最も相応からざる場所を得てしまった。
そんな気がするのだ。

images
上掲は鈴木春信 (Suzuki Harunobu)『見立半托迦 [龍を出す美人] (Parody Of Panthaka Ascending Dragon And Beautiful Woman)』。
美少女が掌にする丼から竜 (The Dragon) が昇天している。こおゆう軽やかな発想は、芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa) には、先ずないだろう。

次回は「」。
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