2016.01.05.09.18

やしゃ

夜叉 (Yaksha) の本来の意味するところは、我が国における (Oni) とはそう変わらないモノだと謂う認識があるが、このことばを初めて知った際の夜叉 (Yaksha) は、それとは相当異なるモノなのだ。

マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』 [作:水木しげる (Shigeru Mizuki) 19671969週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) 連載] に登場した夜叉 (Yaksha) が、それなのである。就学前の、保育園児だった頃、クラスの友人が貸してくれた単行本で初めて読んだ。

マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』の、と綴ってはみたが正確にはマンガ『墓場の鬼太郎 (Hakaba No Kitarou)』 [作:水木しげる (Shigeru Mizuki) 19651967週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) 不定期連載] の、と紹介する方が実は正しい。
週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) で発表された際の題名がそれで、まだその作品の連載開始前、一話読み切りの不定期掲載の時代に発表された作品群のひとつで、1966年11月掲載作品だ。
1967年に正式な連載作品となり、さらにその次の年の1968年にアニメ作品『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』 [原作:水木しげる (Shigeru Mizuki) 19681969フジテレビ系列放映] が放映される段になって、遡るかたちで作品名が『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』へと改題された。
ぼくが初めて読んだのは、その頃の事である。

水木しげる (Shigeru Mizuki) 創造の、と断りを入れるのは勿論、夜叉 (Yaksha) と謂う存在そのものが冒頭に記した様に、既に多様な概念を含む存在であるからなのだけれども、その、水木しげる (Shigeru Mizuki) 創造によるところの夜叉 (Yaksha) でさえも、多様な概念や形態を伴って現れるから、ややこしい。
例えば、マンガ『悪魔くん復活 千年王国 (Sennen Oukoku)』 [作:水木しげる (Shigeru Mizuki) 1970週刊少年ジャンプ (Weekly Shonen Jump) 連載] の中で、会話の中だけに登場する"崑崙夜叉 (Yaksha From Kunlun Mountain)"と謂う存在がある。その実体は決して作品の中には登場しないが、その存在を語る語り口の中で推測するだけに相当に怖しい、巨大なちからをもった存在である様だ。

だから、ここで取り上げる夜叉 (Yaksha) は、週刊少年マガジン (Weekly Shonen Magazine) の読み切り作品『墓場の鬼太郎 (Hakaba No Kitarou)』その1966年11月掲載作品に登場した夜叉 (Yaksha) だけに限定して、この先を綴る事にする。マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』の単行本や文庫本で『夜叉 (The Yaksha)』と謂う題名が与えられたそれである。

その物語の構造はいたって簡単だ。
鬼太郎 (Kitaro) は事件の解決に乗り出すモノの逆に被害者と同じ憂き目に遇う。それを救済するのは彼の父親である目玉おやじ (Medama-Oyaji) であり、最後のクライマックスに於いても窮余に陥る鬼太郎 (Kitaro) を救うのも彼だ。実質的には、彼が事件を解決したと謂っても良い。
ある意味に於いて、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』と謂う作品での王道の様な物語である。
そして、王道であるが故に、この作品の特質、と謂うか、その作品を含む水木しげる (Shigeru Mizuki) 作品の特質と謂うか、作者そのものの特質をも、かいまみる事が出来る様な気がするのだ。

怪奇や恐怖を題材とした作品である筈なのに、どうもそれとは異質なモノがそこにある様な気がしてならない。寧ろ、怪奇や恐怖とは異なる世界観がそこに描かれている様な気がしてならない。

この物語には、ねずみ男 (Nezumi-Otoko) は登場しない。
彼が登場する作品、否、彼が活躍する作品は、怪奇や恐怖と謂う主題はどこかにいってしまう。謂い方を改めれば、怪奇や恐怖は妖怪達によるモノではなくて、人間達自らが生み出している様にも思えてしまう。
彼が登場し、彼が物語の主軸を担えば、どんなに高尚な物語であっても非常に俗っぽい下卑た世界を描いたそれへと下落してしまうが、その結果、心底怖ろしいそのモノは、人間くさい世界観の中に属する事がみてとれてしまうのだ。
ねずみ男 (Nezumi-Otoko) が人気があるのも、マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』が広い支持を得ているのもそういった理由なのだ。

それ故に、ねずみ男 (Nezumi-Otoko) の登場しないこの物語は、もっと単純な世界観の上に構築されている事になるのだが、ぼくが拘泥しているのはもう少し別のところにある様だ。

images
物語の扉は、長い髪がとぐろを巻きながら流れ、その顔貌を一切うかがい知る事の出来ない男が、ギターを爪弾いている情景だ [上掲図版はこちらから]。
この描写は物語本編の中で、夜叉 (Yaksha) [つまり長髪のギター弾き] が鬼太郎 (Kitaro) を催眠させて自らの許に引き寄せるシーンで再演されるが、ここでの描写は相当に怖い。

鬼太郎 (Kitaro) が「かみの毛を一本たてて妖気をはかってみ」てから、彼の自宅 [今の表現で謂えばツリー・ハウス (Tree House)] に近づいた辺りからギターの音がどこからともなく聴こえてきて、その音に吸い寄せられるかの様に鬼太郎 (Kitaro) は夜叉 (Yaksha) の許へと引き寄せられるのだ。頁数にして見開き2頁の描写だ。
怪奇漫画、恐怖漫画としての『墓場の鬼太郎 (Hakaba No Kitarou)』の、この物語の白眉はここだ。

だが、ここで演出される恐怖感が物語全体を貫いている訳でも、この恐怖感が鬼太郎 (Kitaro) によって解決される訳でもない。

この後に続く目玉おやじ (Medama-Oyaji) の活躍は、まるで親指トム (Tom Thumb) の様なものであり、恐怖と謂うよりも寧ろ喜劇に近い。そして、その軽快な描写が物語の最後まで貫き通されるのだ。
物語は一体、どこで屈折してしまったのだろう。

恐怖と笑いとは全く同質のモノなのだ、と謂う解りやすい一般論もここでは通用しない。

作品の一コマ一コマを追って行くと、恐怖感が喪失してしまうのは、どうやら長い髪の下にあるその顔貌が明らかになってからの様なのだが。

それをもって、その原因とするにはあまりに弱い。
この物語は何度もアニメ化された様で、その容貌も徐々に原作から離れていき、実写版映画『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌 (GeGeGe No Kitaro 2 : Sennen Noroi Uta )』 [本木克英 (Katsuhide Motoki) 監督作品 2008年制作] ではソ・ジソブ (So Ji-sub) が夜叉 (Yaksha) を演じるまでになったが、そおゆう事でもって、物語が強化ないしは妖化される訳ではない。

本来ならば、怖ろしいモノ怖いモノがいつの間にか、それとは全く異なる質感を与えられてしまうのは、この物語だけの特質ではない。マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』のどの作品にも顕れるモノだし、他の水木しげる (Shigeru Mizuki) 作品にも同様に顕われるモノだ。
ただ、その正体がいつまでたっても解明される訳でもない。

解明される訳ではないが、相当近くまで肉迫出来る様な気にさせる。
だから、何度も何度も読んでしまう。

そうして解るのは、水木しげる (Shigeru Mizuki) の幾つもの常套手段だ。
妖怪の本体が、その肉体とされるモノとは別のところにある、と謂う設定はその後、何度も語り繰り返される事になる。

マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (GeGeGe No Kitaro)』の『夜叉 (The Yaksha)』と謂う作品は、そんな作品なのである。

次回も「」。
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