2015.05.11.00.08

『ほぼ日刊イトイ新聞』で『写真にドキドキし続けている。 -写真家・上田義彦さんの35年。-』を読む

写真家である上田義彦 (Yoshihiko Ueda) の展覧会『ア・ライフ・ウィズ・カメラ (A Life With Camera)』[於:ギャラリー916 (Gallery916) 2015.4.10.~2015.7.26.] の開催にあわせて、『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』で『写真にドキドキし続けている。 -写真家・上田義彦さんの35年。-』 [担当:奥野武範 (Takenori Okuno)] が4回に渡って掲載された。

その読後感をこれから綴るのではあるが、記事に書かれている事が前提になるので、当該記事を未読の方は、それを読んだ後に、以下に掲載する拙稿にあたってもらいたい。
以下の目次にあるリンク先から直接アクセス出来る様になっている。
尚、以下の拙稿では敬称を省略させて頂いた。

写真にドキドキし続けている。 -写真家・上田義彦さんの35年。- 目次
第1回 Story 01 残る写真。
第2回 Story 02 家族の大きさ。
第3回 Story 03 世界と断片。
第4回 Story 04 写真にドキドキし続けている。

各4回とも、奥野武範 (Takenori Okuno) から上田義彦 (Yoshihiko Ueda) へのインタヴューを読了するとその下で、上田義彦 (Yoshihiko Ueda) の作品を1点、観る事が出来る様になっている。つまり、全部でよっつの上田義彦 (Yoshihiko Ueda) 作品を観る事が出来る訳だ。
インタヴューを丹念に読んでいき、その後にその作品に出くわすと、まるでそこで問われ語られていた事がすっかりと腑に落ちる様な心地がする。つまり、インタヴュー中の問いと答えの応酬の、その証拠品の様にみえる訳だ。

だからと謂って、そんな2次的な位置づけとしてそれらの作品に出逢えなくとも、個々の作品は総て強く、美しい。
こちらから語りかけたり問いかけたりするその前から既に、強く美しく己の存在を主張している。

本来ならば、そのよっつの作品をひとつひとつ取り上げて、それらがぼくに何を主張しているのか、それらのどこが強く美しいのか、ここで綴らなければならないのかもしれないが、この拙稿の主眼はそこにはない。

実は、全然、別の事が気になって気になって仕方がないのだ。

インタヴューで語られているのそのことばは、話題やその時代が多岐に渡る代わりに、たったひとつの事しか語られていない様に思える。
それは一言で謂ってしまえば初心 (First Resolution)、と謂う事。
しかも、それは"忘るべからず (Don't Forget) "と謂う様な、強制力や努力をもってして維持したり鎮護したりするモノではない。上田義彦 (Yoshihiko Ueda) にとっては、いとも容易く軽々と、長い写真家生活の中でいまだに共存しているモノなのだ。

展覧会『ア・ライフ・ウィズ・カメラ (A Life With Camera)』で展示されている幾つもの作品を例に挙げながら、当時の逸話から語り出される言葉は常に、たったひとつの言葉に収斂されていく。

だからこのインタヴューは、落ち着いた話であるし、誤解を生む表現をすれば、面白みのない話でもある。
いや、これはぼくがインタヴューと謂う表現手法に、物語の様な起伏や、聴き手と語り手の間に丁々発止とも謂える刺激的なやり取りを期待しすぎているからかもしれない。

にも関わらずに、いやもしかしたら、それ故だからこそ、なのかもしれないが、この記事を読んでいる際はいつも、不安定な、落ち着かない心持ちになってしまうのだ。

それは恐らく、インタヴューと一緒に掲載されている写真のせいだ。しかもその写真は、上田義彦 (Yoshihiko Ueda) 作品ではない。
聴き手である奥野武範 (Takenori Okuno) が尋ね、語り手である上田義彦 (Yoshihiko Ueda) が応える、取材中の写真が、ぼくにそんな心持ちにさせるのだ。

その理由のひとつは、ふたりが立ったままで会話をしているせいかもしれない。展覧会『ア・ライフ・ウィズ・カメラ (A Life With Camera)』の展示物を一緒になって観てまわりながらでの取材である様なので、それは至極当然の体勢と謂える [第2回『Story 02 家族の大きさ。』での掲載写真のひとつに、奥野武範 (Takenori Okuno) の掌に録音機らしいモノが観える]。

ただ、それだけならば、第3回『Story 03 世界と断片。』の掲載写真にある、自身の作品を観護る上田義彦 (Yoshihiko Ueda) の後頭部の写真2点はなんなのだろうか。何故、あれらの写真が掲載されているのだろうか。
聴き手である奥野武範 (Takenori Okuno) の視点なのだろうか。

それは決して違う。
ぼくはこの様に考えている。

聴き手がいて、語り手がいる。しかし、その現場にはもう1人の立会人がいる。インタヴューを撮影しているカメラマンだ。しかも、その場で行われている取材の対象は、彼ないし彼女が手にしているカメラについてだ。
彼ないし彼女には、上野の語る言葉の数々は一体、どの様に響いているのだろうか。

つまり、先程指摘した第3回『Story 03 世界と断片。』2点の写真の視点は、カメラマンそのひとの視点なのである。

恐らくぼくは、聴き手でも語り手でもないその第3の人物の視点で、この記事を読んでいるのではないだろうか。

これまでの『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』を読んできた経験則上、取材の撮影はその記事のデザインを担当するモノが当たっている様だ。
もしそうならば、カメラマンでありデザイナーであるその人物が、文字通りの1番最初の読者となっている事になる。

附記:
第3回『Story 03 世界と断片。』で紹介されている「スコットランドの風景」の作品を観て、「ターナーそっくりですよ」 [(C) 1906年 『坊つちやん (Botchan : Master Darling)』 by 夏目漱石 (Natsume Soseki) ] と想ってしまったのは、ぼくだけなのでしょうか?
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